中等教育におけるカリキュラム構成への理論的示唆 – A Theoretical Consideration of the Curriculum in English-language Teaching

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Writer(s): 
木塚雅貴 (Masataka Kizuka) , 北海道教育大学

The aim of this paper is to consider the current framework of the curriculum in English Language Teaching (ELT) in order to clarify its defects and to suggest a new framework. The National Curriculum on ELT, which is supposed to provide a “scientific” framework of the curriculum, emphasizes the students’ acquiring four skills. However, in curriculum theory there is another curriculum framework called “experiential.” The former is concerned with what the learners can do with English, while the latter is concerned with the meaning of what the learners have learnt. From the point of view of the curriculum of other subjects, such as the Japanese language, and the discussion of philosophy, for all students and all occasions the scientific framework is not necessarily suitable. Therefore, it seems reasonable to say that the experiential framework can play a very significant role. In view of these facts, ELT should introduce a more experientially-oriented curriculum in order to provide opportunities to obtain a new point of view and a new way of thinking.

1.問題の所在

本稿の主題は、学習指導要領を中心とした中等教育における英語教育のカリキュラム構成理論を考察することにより、そのカリキュラム構成理論が有する問題点を明らかにし、新たなるカリキュラム構成理論を提示することにある。中等教育における英語教育の現状を考えるとき、技能中心の教育観が前面に出されていることが理解される。すなわち、英語の技能(skills)獲得を第一の目的とした教育、換言すれば技能運用能力の養成を標榜する考え方である。英語教育では、四技能(読む・書く・聴く・話す)に基づく到達目標が示された国家カリキュラムとしての学習指導要領が作成されていることに鑑みるとき、技能運用能力の養成を英語教育の中心に据えていることに、否定の余地はないであろう。技能中心の考え方では、英語の運用能力の養成が最重要課題であり、英語を使うことができるようになるためのトレーニングに重点が置かれる。すなわち、英語に関する知識・理解を基礎とし、知識として習得し理解した事項を、実際のコミュニケーション場面で運用できることが目標となる。そして目標に到達したか否かの結果を、学力テストや入学試験あるいは資格試験(TOEFL・TOEIC・英検等)のスコアーに現れた数値から捉えようと試みる。例えば、2002年(平成14年) 7月12日付で文部科学省から提出された『「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想』においては、達成目標や英語教員の資質の向上において、TOEFL・TOEIC・英検に基づいた数値目標が示されていることに加え、中学校・高等学校における教育内容等の改善に関し、学習指導要領における四技能の連関を求める内容を含んでいる。上記は、中等教育の英語教育において、技能中心の考え方が鮮明に打ち出されている例であると捉えられる。

英語教育における技能に関わる論考では、従来、教養のための英語教育か実用のための英語教育かという区分による考察は行われてきた1)が、カリキュラム構成理論に基づく考察は行われていない。従って本稿では、カリキュラム構成に関する理論的見地から、中等教育の英語教育における技能中心の考え方が持つ問題点を明らかにし、英語教育の新たなるカリキュラム構成の方向性を提示することをねらいとする。

2.カリキュラム研究の枠組み

 浅沼(1999,pp.30-31)によれば、カリキュラム研究は、「(1)具体的に学校においてどのような内容や活動を編成するべきかという現実的な『影響力』のある『意思決定』の問題にかかわる研究」と「(2)その意思決定とは距離を置き、カリキュラムの歴史的・社会的な『意味』や主観的な『意味』について探る研究」とに二分され、それぞれが対象としている内容は、「前者は、多くの場合、教科書の内容や学力テストなどで見られる、よりフォーマルで観察可能な対象を扱っている。後者は、それに対して、カリキュラムに関わる政治的・社会的文脈や個々人の内面的な意識や価値観など、よりインフォーマルで観察が難しい対象を扱っている」(浅沼,1999,p.31)と述べられている。

 上記に見られるカリキュラム研究の枠組みに従えば、(1)が中等教育の英語教育におけるカリキュラムの考え方を支配していることは、前項の内容から自明であろう。従って、(1)を技能中心の科学的カリキュラム構成と呼ぶこととする。一方、カリキュラム研究の枠組みには、(2)に見られる考え方もある。(2)は、「個々人の内面的な意識や価値観」(同上)に関わる事項を扱うことに鑑み、感性・創造性中心の経験的カリキュラム構成と呼ぶこととする。感性・創造性中心の経験的カリキュラム構成は、客観的に試験等を通じて観察されることが難しいため、中等教育における英語教育のカリキュラム、すなわち技能中心の科学的カリキュラム構成とは、基本原理が異なっている。

 技能中心の科学的カリキュラム構成の考え方は、哲学の還元主義に通ずる事項を含んでいると捉えられる。還元主義は、広辞苑(p.573)において、「科学的知識は直接観察可能な対象に関する命題のみによって構成されなければならないとする主張」と定義されている。技能中心の科学的カリキュラム構成の考え方は上述の通り、「直接観察可能な対象」として数値化されることが可能な事項を扱うことを志向していることに鑑み、還元主義の考え方を適用していると捉えられる。還元主義の考え方は、論理実証主義(logical positivism)の理論、すなわち「検証不可能な命題は無意味である」(広辞苑,p.2746)とする考え方を彷彿とさせる。しかし、渡邊(1991,p.171)が「検証されないものを『無意味』と見る考え方は『愚かしい誤解』であったことが明らかになってゆく」と指摘しているように、直接観察によって検証され得ない事項の中に有意味な事項が含まれていることが判明し、論理実証主義は破綻へと向かうことになる。従って、上記に鑑みるとき、技能中心の科学的カリキュラム構成が、カリキュラム構成としては不充分であることが導き出されるのである。

 技能中心の科学的カリキュラム構成が趨勢となる背景には、教科内容の現代化(教科内容の根本的再編)が1960年代のアメリカにおいて進められたという事情がある。この点について柴田(1994,pp.86-87)は、「教科の構造を形成する科学の基本的概念や原理の重要性を強調した。この意味の構造の重視は、すべての現代化に共通するものである。アメリカではそれを『学問中心の教育課程』(discipline-centered curriculum)と呼んだが、それは『児童中心のカリキュラム』ないしは経験主義教育からの決別を意味し」たと述べ、さらに「現代化においては、どの教科においても科学のもっとも基本的な概念とか原理を中心にした教科(内容)の新しい構造を樹立することが目指された。基本的な概念や原理を学習すれば、他の多くの知識の習得が容易になると考えられた」(柴田,1994,p.92)と述べている。上記から、技能中心の科学的カリキュラム構成へとシフトして行く姿が看取されるとともに、形式陶冶に基づく考え方が含まれていることが理解される。従って以下では、形式陶冶の問題を採り挙げることとする。

 

浅沼(1999,pp.43-44)は、「カリキュラム編成における訓練転移の仮説は、実は合理的な根拠があるわけではない。それは、現在もなお、これまでがそうであったからという漠然とした理由だけでカリキュラムの領域として受け継がれてきただけであった」と述べている。従って、「カリキュラムの形式陶冶にある転移仮説」(同上)に明確な根拠はなく、ソーンダイクは「ハイスクールにおいて形式陶冶説に基づく多くの科目の勉強が期待に反して、『一般知能』への転移があまりないことを発見した。とくに数学や言語系の科目は、それが優れた思考へとつながるものとして仮定されてきたのであるが、実際はその仮説に反してあまり大きいものではないことを示したのである」(同上)。すなわち、形式陶冶を重視した「学問中心の教育課程」が、「経験主義教育課程」よりも望ましいとする理論的根拠は存在しないことになる。 

従って、カリキュラム構成理論において、技能中心の科学的カリキュラム構成が重視される拠り所は、瓦解したと言わざるを得ないのである。

3.技能中心の科学的カリキュラム構成と感性・創造性中心の経験的カリキュラム構成

 学習指導要領に基づく英語教育のカリキュラム構成が技能中心の科学的カリキュラム構成であることは、既述の通りである。すなわち、英語の学習により得られた知識を基にコミュニケーションを達成できること(英語の学習成果)が求められているのである。一方、カリキュラム構成においては、感性・創造性中心の経験的カリキュラム構成があることも既述した。感性・創造性中心の経験的カリキュラム構成は、前項における浅沼の定義を踏まえれば、英語を学習したことによって個々の学習者の中で、何が変化しまたその変化がどのような意味を個々の学習者にとって持つのかを問うカリキュラム構成であると言える。現在の技能中心の科学的カリキュラム構成に偏った英語教育を是正するためには、感性・創造性中心の経験的カリキュラム構成を含めることが求められる。なぜならば、技能中心の科学的カリキュラム構成が確固たる理論的基礎を有したカリキュラム構成ではないからである。 

 以下では、(A)国語教育におけるカリキュラム構成・(B)教科概念の不確実性(虚構性)・(C)合科学習(教科統合)型カリキュラムの可能性の三点を考察することを通して、感性・創造性中心の経験的カリキュラム構成の重要性を明らかにする。

(A)国語教育におけるカリキュラム構成

 国語教育において、四技能中心の授業が行われていないことは、各自の学習経験に照らして理解され得ることである。小学校学習指導要領における国語の目標には、「思考力や想像力及び言語感覚を養い」という文言があることから、感性・創造性中心の経験的カリキュラム構成を採り入れていることが捉えられる。言語として同じカテゴリーに属する英語のカリキュラム構成とは、異なっている。この点は、国語が母国語であることを踏まえれば当然であるとする見方も可能であるかもしれない。すなわち外国語である英語は、言語自体を使うという素地が出来上っていないために、技能中心の教育にならざるを得ないとする見方である。

 しかし上記の見方は、国語教育と英語教育の教材構成の差異を考えるとき、否定される。国語教育において目標とされている事項は、教材の内容理解及び作品の鑑賞2)である。一方英語教育において目標とされている事項は、教材の内容理解を含みつつも、作品の鑑賞ではない。例えば国語教育において、鑑賞に適した優れた小説や詩は、小学校一年生の教科書から登場して来る。しかし英語教育においては、高等学校の教科書を考察しても、原典の一部を抜粋し手を加えた小説あるいは書き直された(retold)小説がわずかに載せられているに過ぎない3)。詩は、教科書の見開きに載せられている場合が多い4)ものの、それらが音読や鑑賞にとって相応しい優れた詩とは限らないことに加え、授業で扱われないことが多いことも既に指摘されてきた5)。すなわち、言語教育という意味で国語教育と同じカテゴリーに属しながら、英語教育においては、鑑賞という領域が置き去りにされているのである。しかも、国語教育では、語彙や文法において現代文とは大きく異なる古文・漢文においても、作品の鑑賞(音の響きやリズム、言葉の使われ方の美しさ等)が行われている6)。現代文とは異なり、コミュニケーションの道具として用いることがないから、技能中心の教育にはならないと捉えることも可能ではあるが、現代文においても鑑賞が重要なファクターになっている7)ことに鑑みるとき、国語と外国語の違いに基づく学習指導要領の内容の相違と捉える論拠は乏しいと言わざるを得ず、古典・現代文という区分とは無関係に、鑑賞が重視されていることが理解される。

 従って、同じ言語教育として、国語教育のカリキュラム構成を検討する必要性があると言える。

(B)教科概念の不確実性

 教科という概念は、小学校から慣れ親しんでいるため、教科自体が存在する根拠を有しているという誤解を抱く傾向にあると言える。教科の起源として考えられている一つが、古代ギリシャにおける七自由科(seven liberal arts)、すなわち文法・修辞学・弁証法・算術・幾何・音楽・天文学である。安彦(2002,p.41)が「これら学問が求める文化的な基礎知識の体系化されたまとまりとして、教科というものがまず出来てきた」と述べているように、教科は背景となる基礎学問を体系化し出来上った。古代の教科と現在の教科が異なっていることから理解されるように、固定化され絶対化された教科の枠組みが存在しているわけではない。すなわち、背景となる学問の捉え方により教科の枠組みが異なる可能性があり、佐伯(1987,pp.114-123)の「教科の枠組みは虚構である」という指摘は、正しいと言える。

 技能中心の科学的カリキュラム構成の教科観から脱却する一つの考え方として、佐伯(1987,p.128)は興味深い例を示している。「木登りが体育だというのなら、それは木登りそれ自体がまさしく『価値がある』ものだからでなければならない。木登りがおもしろく、木登りで世界の見え方、人生観がかわり、新しい世界が広がるからでなければならない。(中略)あらゆる教科のあらゆる内容が、『それを通して文化を見る』窓だということは、いわゆる教科の基礎・基本に関しても、従来とは異なった見方をとる。たとえば、かけ算の九九にしても、『九九を覚える』ということが目標になるのではなく、九九表のなかに潜むさまざまな法則や秩序の意味のおもしろさ、生活での便利さ、あるいは、九九を覚えやすくする昔ながらの人々の知恵・・・こういう『九九文化』といえるものに触れ、それを味わい、『いいな』と実感するのが目的である。」感性・創造性中心の経験的カリキュラム構成が持つ重要性が語られている。佐伯の指摘を英語教育に当てはめるとき、技能獲得を目標として設定するのではなく、例えば文学作品の鑑賞を通じた人間形成、国際理解教育による世界観の広がり及び人生観の変化が、目標として設定されることになるであろう。

(C)合科学習(教科統合)型カリキュラムの可能性

 教科概念が固定的・絶対的な存在ではないと認識されるとき、教科統合が生まれる。カナダのブリディシュ・コロンビア州が1992年から導入した教育課程では、教科の再編統合により、英語(カナダの国語に相当)・外国語・生活科・社会科を人文((Humanities)という領域にまとめている(柴田,2000,p.220 )。

 既存の教科概念が瓦解するとき、国語と英語は、言語というカテゴリーの中に同一の新しい「教科」として成立することが可能となる。その場合、技能中心の科学的カリキュラム構成に偏ることは、不可能になるであろう。なぜならば、英語以外の教科においては、技能中心の考え方ではない8)からである。

 品川区立富士見台中学校では、2001年度(平成13年度)から系による教科再編を試行し、言語系という名称の下、国語と英語を一つにまとめた総合的な学習を行ってきた。『小中学校 系の学習指導要領(試案)』では、「系の学習におけるスキル」という概念を設定している。「スキルとは、一般的には計算スキルや漢字スキルなどのように単純な技能として捉えられている。しかし、系の学習ではスキルを子どもにとって最も大切で社会生活の中で欠かせない“知的で実践的な技能”と捉えている」(p.4)と述べられていることから理解され得るように、技能中心の教育とは一線を画している。「言語系」の「具体的なスキル」(p.5)の項目には、「やりとり、発表、話し合い、読み・読み取る・音読」(同上)が挙げられており、国語教育で重視されている言語感覚・感性・創造性に焦点を置いた内容になっている。教科概念の絶対性という神話から解放されるとき、技能中心の科学的カリキュラム構成からの脱却は、言語を共通項として国語と英語を一つの枠組みに収め、国語教育のカリキュラム構成を採り入れることにより実現され得ることが理解される。

 国語と英語の教科統合の場合言語が異なるため、教育の根本原理、言い換えれば言語教育としての共通目標をどこに設定するかが重要になる。上記品川区の場合は、「コミュニケーションスキル・対話スキル」(『小中学校 系の学習指導要領(試案)』,p.5)を共通目標として設定し、形式的に活動を繰り返すことによる表面的なコミュニケーション能力の育成を目標として挙げてはいない。

 上記の例以外にも、作品の鑑賞を採り挙げることによる人間形成や、外国語学習により世界観を広げること、日本人の物の見方・考え方と外国人のそれらとを比較し人生観の転換を図ること等は、国語教育と英語教育を結びつける共通目標になり得るであろう。

4.結語

 本稿における議論から、以下に示す五点の事項が明らかとなった。

  1. 学習指導要領を中心とした中等教育における英語教育のカリキュラム構成理論は、技能中心の科学的カリキュラム構 成であること。
  2. カリキュラム構成理論には、技能中心の科学的カリキュラム構成と感性・創造性中心の経験的カリキュラム構成が存在すること。
  3. 国語教育においては、感性・創造性中心の経験的カリキュラム構成が主であり、言語教育という同じカテゴリーに属する英語教育が、技能中心の科学的カリキュラム構成を採る根拠は乏しいこと。
  4. 教科概念が成立し得る確固たる基盤は存在しておらず、既存の教科観に基づいて設定された英語教育の目標を見直す必要性があること。
  5. 現在のカリキュラム構成理論に関する動向に鑑みるとき、教科の再編・統合の可能性が見出される。上記の状況下における英語教育のカリキュラム構成として、技能中心の科学的カリキュラム構成から脱却し、感性・創造性中心の経 験的カリキュラム構成に基づく人間形成・国際理解教育を中軸とする必要性があること。

<注釈>

  1. 『英語教育学概論』(pp.11-16)及び『新・英語科教育の研究』(pp.39-46)を参照のこと。
  2. 小学校学習指導要領国語の第 5学年及び第 6学年の「C 読むこと」では、「登場人物の心情や場面についての描写など、優れた叙述を味わいながら読むこと」が示されている。
  3. 2003年度版高等学校用英語・(46冊)・英語・(47冊)・Reading(32冊)の教科書の中で、文学的価値の見地から鑑賞に適した小説を載せている教科書は、英語・(9冊)・Reading( 7冊)であった。各教科書の作品数は、Reading用のTreasure Land (文英堂)が 6作品を採り挙げて いる以外は、総て 1作品ずつであった。 
  4. 高等学校用英語・の教科書を参照のこと。 
  5. 『現代英語教育』(pp.20-21)を参照のこと。 
  6. 中学校学習指導要領国語では、古典に関する扱い方として、「音読などを通して文章の内容や優れた表現を味わうことができるようにし」と述べられている。 
  7. 国語教育における鑑賞に関して柴田(pp.172-173)は、日本の場合「文学教育を行うという観点すら確立 していない」(p.172 )と述べている。国語教育の現状さえ、上記のように分析されているのである。 
  8. 学習指導要領を参照のこと。 

<参考文献>

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